直線AB

A line between dot and dot.

ユメとゲンジツのはざまにいて

※少し共通する話でもあるので、過去記事を張っときます。

完全に自分の考えしか書いてないんですが時間があればどうぞ、、

大海を知った蛙の行く末 - 直線ABぼくら社Blogで一度紹介していただいた記事です)

 

 

「誠に遺憾ながら・・・」

 

心臓をバクバクさせながらメールを開き、

なぜか一番最初に視界に入ってしまったその言葉に絶望しながら全文を読む。

 

「今回は誠に遺憾ながら、ご期待に添えない結果となりました。」

 

某大手出版社の、2次面接不合格のオシラセ。

やたらとまどろっこしい表現で、

でもメールを開いたその瞬間になんとなく雰囲気として

結果が伝わってくる不思議な文章。

 

なんとなくこうなるだろうと思っていたけれど、

どこかでまだ期待していたのだろう、どうしても心が沈む。

 

自分を納得させるため、

就活生が情報交換する掲示板を開いてみる。

 

「お祈りされました、次いかれる方頑張ってください!」

 

「分かってたけど祈られてしまいました、残念です。」

 

”お祈り(=不合格)”は就活で学んだ隠語のひとつだ。

書き込みを見て、やはり仲間は多かったみたいだ、と

沈み込んだ心を無理矢理引き上げてみたりする。

 

「お祈りでした~まあ、夢を見させてもらったという感じです!」

 

なぜかこの書き込みだけが、引き上げている最中の心にひっかかってしょうがなかった。

 

「夢」?

わたしは21歳にもなってこの氷河期の中、

「夢」を追っていたのか??

 

大手出版社の採用人数は5~10人程度であるのにも関わらず、

応募者は数千人にのぼる。

内定をもらうのはまさに「宝くじの確率」。

運が重要だと言う人もいるようだ。

 

まあ、今更倍率の話を引っ張り合いにだすつもりはないし、

何らかの条件を指して「運だ」と語りたくなる先人の気持ちも分かる。

それに周りからしたらそんな企業に労力をかけること自体、

「夢見がち」だと言われてしまうだろう。

でも自分で自分のしてきたことを「夢追い」だと言うのには抵抗がある。

 

 

そもそも「夢」ってなんだろう?

 

仮説1:魔法とかそういう、非現実的なもの

これはディズニー映画やハリーポッターの世界で感じることができる夢。

寝ているときにみる素敵な夢もこれに分類される。

 

仮説2:物心がついて実現不可能とあきらめたもの

小学生の頃に描いた夢のこと。

プロのスポーツ選手、芸能人などの夢がこれに当たる。

 

仮説3:実は本当にやりたいことではなかったもの

花屋さん、ケーキ屋さんなどが当たる。

多くがイメージを夢にしている。

 

仮説4:夢だと思わないとやっていられないので夢としたもの

夢だと思ってなかったのに夢にしたもの。歳をとるほどこの夢が多くなる。

そしてまだそれを現実世界で追っている人を否定したくなる。

 

 

私にとっての大手出版社への就職は、仮説3に該当するものです。

なので引き戻ることはありません。

なんだ、結局「夢」だったのかと思われると思いますが、

「夢を見させてもらった」と語った人が指す「夢」とは

大きく色が異なる(と自分では思っています)。

 

もちろん、そう語った人が指す「夢」が仮説4の「ユメ」です。

 

 

就活をしていて、電車の中のサラリーマンの方々への見方が大きく変わったのはひとつ、大きなプラスの資産となりました。

今まで「ツマラナイ」と決めつけていた大人たちの中の多くが

社会を支える重要な仕事をこなしている。

おそらくすんなりと大手に内定をもらっていたら感じ得ないことだったと思います。

 

それでもなりたくない「ツマラナイ大人」は存在します。

それが仮説4の「ユメ」をたくさん持った大人。

 

「ユメ」がたくさんあるということは、

どんどん自分の世界を狭めているということだと思うのです。

「ユメ」と括った時点で、それは自分と関係のない世界になってしまうから。

自分がいる世界だけが「ゲンジツ」になってしまうから。

 

でも、そういう「ツマラナイ大人」になる可能性は

実は同世代の方が高いのではないかとも感じます。

 

「さとり世代」と言われるように、

不況の就職難、格差社会の中を生きている私たちは

いつもどこか「あきらめる」ことを良しとしているような。

 

多分、悔しいと思うことが、「悔しい」のです。

後悔なんてものはしたくなくて、だから失敗に色々な理由をつけます。

そっから這い上がろうなんて、「悔しい」をバネにしようだなんて、

かっこわるすぎて到底できない。

 

だからできなかったことは「ユメ」の世界へと放り込んでおくのが一番。

 

でも、そうしたって「しあわせ」にはなれるのだから問題ない。

 

・・・というのが今の日本なのだと思います。

 

でもその「しあわせ」の中でだって、

なんとなくどこかに焦燥感がむくむくと湧いてくる。

「ユメ」にした世界から漏れ出てきた何かが

自分の心の中にぽっかりと穴を開けるときが

絶対に、あると、思う。

  

心のバランスを保つために、

色んな考え方をするのは良いことだと思います。

現状に満足する姿勢だって、必要なことだと思います。

 

でも、本当に大切にしなきゃいけないものは

大切にしておかないといけないなあ、と思います。

どこかに自分の大切なものをしまっておくスペースを、

自分の理想を掲げ続けるしぶとい心を、

保っておかなければいけないんだと思います。

「ユメ」の世界になんでもかんでも放り込みつづけたら、

自分の世界はすごく小さなものになってしまうから。

 

 

 

※すこし参考にさせていただいている本(影響を受けている本)

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

 

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 

 

映画:『アデル、ブルーは熱い色』

 

話題作、『アデル、ブルーは熱い色』を鑑賞。

3時間、揺さぶられ続けた映画でした。

 

簡単に内容などがまとめられているのではっておきます。

映画史上に残るであろう2014年最大の問題作『アデル、ブルーは熱い色』 - NAVER まとめ

 

映画そのものに関してはたくさんの方々に絶賛されすぎているので私が言葉を挟む隙間などいっさいありませんが、

映画を観ながら考えたことをここに書いておきます。

※ ネ タ バ レ 

 

 

Blue Is the Warmest Color

Blue Is the Warmest Color

 

原作の白黒漫画の中では「青」だけ色がつけられていたように、

「青」という色(が表すもの)がこの作品の中心にあることは間違いない。

では「青」は何を表すかというと、情欲、だと思う。

一般的に「青=食欲、性欲を減退させる色」と考えられているようだが

エマを表す色としてこの作中では「熱い色」とされている。

 

こんな具合にこの映画では一つ一つのモノや言葉、仕草に

なんらかの「意味」が込められている。

だから3時間の間、ワンシーンたりとも見逃せない緊張感がある。

 

基本的にずっと主人公のアデルの生活を追って作品は進んで行きます。

食べる、寝る、性交する。

人間の三大欲求が丁寧に、きれいに、そして貪欲に映し出される。

「欲」を満たす彼女を映し出すとき、

その表情に、目線に、仕草に、目が離せなくなる。

かと思うといきなり学校へ行くシーンに切り替わったりする。

現実との切り替わりがまたリアルに感じる。

 

たくさん食べ、ぐっすりと眠るアデルの姿を観ながら、

私は澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』を思い出しました。

 

快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)

 

 

かりに幸福が向こうからやってきたとしても、受け取った幸福などというものに、ろくなものはない。それはひからびた、店ざらしの幸福です。それよりも、自分で作り出す快楽、実践のうちからつかみ取る快楽にこそ、ほんとうの魅力があるのではないでしょうか。

水の中から素手でつかみ取った魚のような、ぴくぴくした、生きのよい快楽!(第一章、幸福より、快楽を より)

 

こんな調子で、自分から「快楽」を求めて行くことの必要性を説いたこの本。

快楽といっても性的な快楽のみを指すわけではありません。

”ブーム”や”世論”に乗っかることで「しあわせだ」と思っている、

その考え方に批判の矛先を向け、

人間としての真の「幸福」に目を向けた

著者の考え方には納得させられる部分が多い。

 

自分で味わってみなければ、何もわかりません。新しい快楽は、自分で味わい、自分で発見すべきものだということです。(第六章、あなたも快楽主義者になれる より)

 

著者はさんざん歴史上の人物のエピソードをのせたあとで、こう締めくくっています。

 

そこでアデルの話に戻るのですが、、

アデルは快楽主義者だったのかと問われると答えは俄然ノーなわけです。

 

でもその素質はあった、と言えるのでは。

 

ある日、デートに向かう途中、アデルは青い髪の女性とすれ違い、世界が一瞬止まったかのように心奪われる。彼女を夢にまで見て、思い悩むアデル。

出典:http://unzip.jp/pickup/adele/

 

とあらすじには書いてありますが、

このときすでに青い髪の女性(=エマ)は女性と肩を組んでいちゃいちゃしているわけで、

どう見てもレズビアンなわけです。

そんな彼女に心を奪われるアデル。

いけないこと、タブーと思っていても魅かれてしまう。

その貪欲さがアデルをよく表しています。

 

そしてアデルがエマへの感情を無視できなくなるのがそのあとにみる「夢」

夢って無意識の中の考えや欲望を映し出すってよく言いますよね。

見事無意識の中から自分の真の欲望を見つけ出したアデル。

 

大抵の人がおそらく「タブーを犯す夢」をみたことはあると思います。

目が覚めてそれを思い出し、嫌な気分になってそれを急いで記憶のゴミ箱へ捨てます。

もしくは残しておきたい衝動を抑えて無理矢理くしゃくしゃに丸め、ゴミ箱へ捨ててフタまでしてしまうわけです。

「もう二度と出てくるんじゃないぞ、それはイケナイ欲望なんだ」というように。

しかしアデルはそれをゴミ箱へ捨てるどころか、

綺麗に折りたたんでポケットへ入れ、現実世界へと持ち出してしまうわけです。

澁澤氏に言わせれば「天晴れ!」とでもいうところでしょうか。

 

一方で、アデルは家庭で「THE・保守派現実主義」の教育を受けてきている。

特に子どもが大好きでたまらない、というわけでもなにくせに先生を目指します。

サルトル実存主義を信条とするエマはこれに納得がいかない。

「文章が上手だから、詩人になればいいのに」

と何度もエマに迫ります。

 

ここらへんの価値観の違いと愛の難しさに目を向けた記事がこちら。

カンヌ・パルムドール『アデル、ブルーは熱い色』公開 ケシシュ監督の美学と哲学が美しい映像になった。 | dacapo (ダカーポ) the web-magazine

 

たしかに「価値観の違い」は恋愛至上最大のテーマ。

エマの個展をひらいてから、

その「価値観の違い」はアデルの心の中で大きな空虚を生んでいきます。

 

2人の家で開かれたエマの個展、

彼女の友人たちに料理や酒を振る舞うアデル。

最初はエマのパートナーとして認められることに喜びを感じるものの、

あまりにも違う世界で生きてきた人々に囲まれ、孤独を感じます。

 

周りでは「あなたの幸福が私にとっての幸福だとは限らない」という趣旨の

抽象的な会話が繰り広げられ、その後ろで自分が作ったパスタを皆に分け与えるアデル。

そのパスタはかつて彼女自身が実家で何度もおかわりをしていたパスタのように見えます。

 

自分がかつて好きなだけ貪るようにして食べていたパスタ。

それを、自分を孤立させる人々、エマを自分から遠ざける人々に分け与えることは、

おそらくとてつもなく屈辱的なことだったでしょう。

 

また、この頃エマの髪色はもうブルーではなく、金髪になっています。

一方で、アデルは鮮やかな青い色のタンクトップを着ている。

すでにこのとき、燃えるようだったエマの情欲は、アデルの方へと移ってきているのです。

 

その後、アデルが寂しさと孤独感に耐えきれずした浮気が原因となり2人は破局。

 

涙に明け暮れるアデルがとった行動は、

もう一度エマに自分への情欲を沸き立たせるという大胆な行動でした。

しかし既に新しいパートナーを持つエマはその誘いにはのりません。

一度はキスに積極的になり、「お?」と思わせられるも、

「今の幸せを守りたい」というありきたりかつ興ざめな返答。

 

”新しいエマ”の中に、かつての激しい情欲は微塵もない。

 

ついでに言ってしまえば新しいパートナーには子どもがいる。

子どもは安定の象徴であり、女性にとっては”女の部分を捨てた”ということにも繋がる。

情欲の矛先がその新しいパートナーに向かったとは考えられません。

その変貌ぶりはエマの新しい作品にもあらわれている。

 

「昔のエマ」と「新しいエマ」が混同したような個展が最後のシーン。

そこに綺麗な青のワンピースを着て訪れるアデル。

付き合っていた当時、エマが

「ビジネス的なアートを求めてくるばっかりで、好き嫌いの基準さえ持たない」

と罵倒していた業界の権力者の支援によって開かれた個展は大成功の様子。

 

また、新しいパートナーとの幸せぶりも見せつけられてしまう。

 

そこでやっとあきらめがついたアデルは、

「青」を背負いながら、エマから遠ざかって行く。

 

自分のやりたいことを突き詰めずに保守的な道を選んだアデルを

批判するような記事も見かけましたが、

私はエマも結局は現実主義のアーティストとして生まれ変わったんだと思う。

どこまでも「美術」の中の「美」を愛し、

さらにアデルが持つ「美」、そこから生まれてくるものにこだわっていたエマなのに。

 

結局2人とも、大事な何かを失ってしまったことには変わりないのだと思う。

 

遠ざかって行くアデルの後ろ姿と、その綺麗な青色を見つめながら、

「そういえば『欲』は年を取るにつれて失っていくものだからなあ、、」

となんだか妙に納得してしまった。

 

 

情熱的で美しく、痛々しくて脆い。

そんな「愛」を見せつけられたと思う一方、

「欲」がいかに真っすぐで美しいものかを突きつけられたような気がした。

 

 

 

最後に作中の歌を。

一度聞いたら頭から離れない曲です。

そして、ちょっとだけ、怖い。


I Follow Rivers - La vie d'Adèle (Blue is the warmest ...

本:『白ゆき姫殺人事件』(湊かなえ、集英社)

 

白ゆき姫殺人事件 (集英社文庫)

白ゆき姫殺人事件 (集英社文庫)

 

 

『告白』も『夜行観覧車』も本書も一日で読み通した。

もちろん世界に引き込まれるというのもあるけれど、

なにより「早く読んでしまわないと」と思う。

 

それは早く事件の真相を知りたいからでもあるけれど、

なによりそこに描かれている「人間の本質的な厭らしさ」を見つめ続けたくないからだと思う。

 

ーーーーーーーー

『白ゆき姫殺人事件』は美人OLが残酷な方法で殺されるという話題性のある殺人事件を軸に進められて行く。

週刊誌の記者が容疑者をほとんど特定しながらこの事件を追い、その内容を週刊誌とネットを使って公開していく。

他人の嘘か真か分からない証言から浮かび上がってくる容疑者の像。

”匿名”という魔力に支えられるネット上での論争は加熱し、情報に惑わされながら意見をコロコロと変えて行く容疑者の知人と、若者たち。

 

映画館で流されているCMで、著者の湊かなえさんは

「他人から見えている自分と自分が思っている自分の間にある差を描こうと思った」

(まるでその台詞を五分前に丸覚えしましたと言わんばかりに)淡々と述べていた。

 

「事件をおもしろがる世の中」や

「ネット上での匿名性を利用した無責任で根拠のない発言」、

「自己承認欲求」、「自己保身」、

など社会の中に潜む問題を皮肉をこめて書き表した本だと思う。

 

もしも自分がひょんなことがきっかけで事件の容疑者になったら

私が関わってきた人たちは一体どんなことを言うんだろう。

平凡な言葉を並べられるだけだろうか。

それとも、今まで自分では気付いたこともなかったような言葉が飛び出してくるのだろうか。

 

「他人から見えている自分」と「自分が思っている自分」に

大きな隔たりがあることくらいこの小説を読まなくても分かる。

 

私がこの小説を読んでふと気付いたこと、というか再確認したことは

本当に他人に興味を持っている人などいないということ。

 

そのことを嫌という程認識させられるのがこの小説だ。

容疑者として挙げられた女性の地元で行われた取材がそのことを在り在りと認識させる。

 

ただのクラスメイトが卒業アルバムを持ってきて、当時のことをおもしろおかしく話すのはまだ分かる。

近所のおばさんが昔あったことを大げさに話すのもよく分かる。

しかし両親が娘のことを庇うことを忘れ、この事件を自分たちの間に起こった問題(父親の不倫)にすり替えてしまったところは驚きだった。

結局、人は自分のことで精一杯で、他人のことなど自分のことの延長線上にしかないのではないかと思わされてしまう。

 

ーーーーーーーー

 

少し前に、twitter

 

友達が少ないのは他人に興味がないからなのかも。

本当は他人のことなんてどうでもいいってどっかで思ってるんだよね…

 

 

という感じのつぶやきを見た。それも一回ではなく、何回か、違う人のものを。

(そのほとんどすべてが特に友達が少ない人の発言ではない)

 

「他人に興味がない自分は少しオカシイ、もしくは少しイヤなヤツ。」

そんな思いがあったのだろう。

 

しかしいくらネット上で他人との会話が多くても、

誕生日に「おめでとう」を欠かさなくても、

何かあったら「大丈夫?」と言っていても、

その人が本当に他人に興味を持っていると言い切れるだろうか?

 

その疑問はもちろん自分の身にも跳ね返ってくる。

そう、自分は他人に本当の意味で興味を持てないと気付いたとき、

もう一つ気付かなければならないこと。

それが、誰も本当の意味で自分に興味を持っていない、ということ。

 

あくまでその人の延長線上に自分がいるだけであるということ。

 

でもそれで孤独感を感じる必要はない。

ただ気付くことは必要なのだと思う。

 

大事なのは自分が他人の延長線上にいる自分に惑わされないこと。

 

そう思っていても、他人からある部分で理解されたいと思うのが自己承認欲求というやつなんだろう。

私もこうして文章を書いて、着々と他人の延長線上にいる自分を作り上げる。

 

それが自分に刃を向ける自分になるかもしれないと怯えながら。なんて。

 

イエローキャブ

周りに海外留学に行っている友人が多いせいか、女性・男性の両方から

「日本人女性がビッチと思われていて困る」

という声を聞くことが増えた。

 

私がこの事実を知ったのは大学2年の夏、マルタ島に行ったときのことだ。

現地で知り合った日本人の友達の一人に、アメリカで留学経験のある女の子がいた。

「アメリカでは大学で少しでもヒールのある靴を履いてるだけで”誘ってる”っていう意味になるの。だから毎日Tシャツにジーパンにスニーカーが当たり前。日本人の女は軽いって思われてるから、本当やりにくかった。」

それを聞いて私もマルタでの2週間が少しやりにくくなったのは言うまでもない。

 

それにしても、アジアでも東アジアでもなく『日本人』と特定されてしまっているのがやるせない。

しかしそれを完全には否定できないことが辛いところだ。

 

「何か具体的に思い当たる場面があるのか?」

と言われると、それも特に思いつくわけではない。

しかしなんとなくそう言われてしまう部分を想像できるし、実際にあるのだろうとも思ってしまう。

 

普通の女性にとってそれが「やりにくい」状況であることは明白だ。

 

しかし有名お悩み解決サイト知○袋で腹をたてているのはなぜか男性方である。

 

日本人にそんな民族帰属意識があったとは驚きだ。

 

…そうじゃない。

彼らが怒っているのはそういった日本人女性の「節操のなさ」と「外人好き」だ。

 

ーーーーーーーーーーー

 

この間週末の込み合った街の中で

『不倫反対運動』

なるものが行われていて驚いた。

 

署名活動を行って不倫の”悪”を主張し、撲滅しようという運動。

 

「不倫で一番苦しむのは子どもたちです!!」

と悲壮な顔つきで声を張る中年男性には一種の切迫感があった。

 

署名用のボードを手にし、お揃いの色のジャンバーを着た十人前後の人々。

彼らは不倫被害にあった人々なのだろうか。

どちらにせよ、これは問題からの逃避だ。

 

先日青少年犯罪の最長刑期が延長されたが、これも同じである。

 

どれだけ周囲が”悪”だと主張しようと、それは抜本的な解決にはならない。

結局は一人一人が

「それをするとこうなるからダメだ、やめよう」

と思っていなければ解決にはならない。

殺人などは幼い頃から”悪”だと教え込まれている。

そして大概の人はそれが絶対的な”悪”だと信じて疑わないし、疑う必要性のある場面にも出くわさない。

 

しかしそれが一人の”性”の問題になるとどうだろう?

なかなか他人からその価値判断についてを教わる機会は少ないから、自分で納得できる価値観にたどり着かなければならない。

 

そしてそれに「恋愛」という要素がついてくると、女性にとっては少し事態が複雑になってくる。

 

少女漫画、女性雑誌、恋愛ドラマ、そのどれをとっても中心となってくるテーマは「恋愛」であり、そのハッピーエンドはきまって「男性から好かれる」ことである。

それも多くの場合一人からではなく、複数の男性から。

 

そう考えると不倫をする人妻の気持ちも分からないでもない、となってくるのでは…

俗に言う、「女を捨てられない」という状況だ(と思う)。

もちろん不倫というのは自然な文脈から考えれば”悪”だ。

しかし夫と妻、という2人の関係がある中で起こる問題である以上、問題は双方にあるとみて良い。

その”悪”を一方にのみ押し付けて終わるというのは、それこそ「夫と妻」という関係を放棄したことに他ならない(と私は思う)。

まあ私にはまだ分からないこと、見えないことが多いのだが。

 

ーーーーーーーーーーー

 

話を日本人女性の問題に戻そう。

前述した通り、「男性から好かれる」ということが女性の幸せである、という主張は様々な方面でなされてきたことで、それが日本人女性の価値観に繋がっていることはまず間違いないと思って良いだろう。

 

しかしなぜ、海外に出ることでそういった女性の価値観の問題が表面まで浮上してきてしまうのか。

つまり日本人女性がとりわけ外国人男性になびくのはなぜか。

 

そこには本当に様々な要因があると思う。

(とてつもなく長くなりそうだし、色々と批判を浴びそうなので今回書くのはやめておく)

 

ただ一つ思うのは、容姿の問題だけではないということだ。

そしてその容姿の問題はほんの小さな点であり、この問題をより根深くしているのは他の点だ。

 

もちろん「節操のなさ」という部分は女性個々人の”性”に対する価値観の問題であり、これは周囲がどうこうできる問題ではない。

しかしその点はおそらく民族に深い関係はない。

 

私が言いたいのは、これを”女性側の問題”だけで終わらせるべきではないということだ。

 

日本人女性がヒールを履き、スカートを短くし、毎日化粧をするのはなぜか。

ただの「外人好き」だったら日本でそんなことをする必要はないはずだ。

 

本当に「困る」と思うのならば、

ぜひ署名活動以外の抜本的解決策を一緒に探してもらいたいと思う。

 

追記:呼べば来る、という意味で欧米ではそういった日本人女性をyellow cabと呼ぶこともある。もちろんここには黄色人種差別も含まれているし、日本人に対する差別意識もこの問題の根本にあると思う。

本:文藝春秋3月号『独立器官』(村上春樹)

この間、話題の月9『失恋ショコラティエ』をはじめて見た。

はじめて見たのにも関わらず、

それまでのストーリーが分かってしまうところがいかにも少女漫画らしい。。。

しかし少女漫画にしては、月9にしては、かなり内容の濃いドラマだ(色々な意味で)。

特に今週(第8話)は急展開だったようで、

サエコ(石原ひとみ)とソウタ(松本潤)がついに関係を持つ回だった。

その事実に憤慨したカオルコ(水川あさみ)がサエコを問いつめるのだが、

「私、ソウタくんには好きになってもらいたいけど、別に私が本気で好きかって言われると…。

っていうか、本気で好きってどういうことですか?」

とまるで悪気のない表情で逆質問される。

カオルコにもちろん返答はできない。彼女もただソウタに思われたいだけだったから。

激しく混乱する彼女は、

 

『ソウタくん気をつけて。あの人、気持ち悪いよ。

女って、気持ち悪い生き物だよ。』

 

と心の中でつぶやく。

 

…いよいよ月9で扱う物語ではない気がした。

(どこで扱えばいいのかは分からないけど)

 

ーーーーーーー

 

文藝春秋3月号には、芥川賞受賞作の『穴』が掲載されている。

それにつられて買ったのだけど(もちろん読んだ)、

生粋の村上春樹ファンである私の心に深く残ったのは

例のごとく彼の文章だった。

 

 

今回掲載されていた文章は『独立器官』。

あらすじを書かないと話が進まないので簡潔にまとめると以下のような話であった。

(※ネタバレ)

 

 

美容整形外科医の渡会医師は金銭的にも性生活的にも何ひとつ不自由のない生活を送っている。

彼は外見はもちろん素敵なのだが、教養が深く、人(特に女性)を魅了する術を生まれつき与えられたタイプの男性だ。

しかし相手に深入りするほどの恋愛には興味がなく、また不必要だとも思っている。

そのため必然的に浮気や不倫の相手になることが多い。

おおかた相手の女性は美しい上に知的なので、面倒なことになることは少ない。

彼は、女性が難なく嘘をつけるのは「独立器官」を持つからだと考えていた。

それは完全に独立した器官だから嘘が暴かれることもないし、彼女たち自身が傷つくこともない。

なんにせよ渡会は私生活のスケジュールまで管理してくれる有能な男性秘書がいたおかげで、

そのような魅力ある複数の女性たちとの潤いのある生活を保っていた。

しかし、そんな彼の心に1年半の付き合いがある女性への恋心が芽生える。

どう頑張っても彼女に魅かれる心を押さえることができない。

それは今まで感じたことのない感情で、自分ではどうすることもできない。

しかし彼女には例によって夫がいて、さらに5歳になる娘までいた。

いわゆる「恋煩い」に悩まされる中で、彼の心の中にはあるひとつの疑問が生まれる。

「自分はいったい何者なのだろうか。」

アウシュビッツ収容所に送り込まれた裕福なユダヤ人医師が個を失っていく様子を綴った本を読んだこともあり、

彼はこの疑問と激しい恋の両方に悩まされることになる。

最終的に彼が恋いこがれた女性は、家も渡会も捨てて年下の彼氏と駆け落ちをして姿を消す。

渡会医師は利用されていたにすぎなかった。

それにショックを受けた彼は心を病み、食べることを拒否し、

そのまま(自らをゼロに接近させていくように)死んでいった。

 

 

話としてはこういった物語になっているのだが、

気になる点は村上氏(文章では谷村となっている)自身が彼から相談を受けており、

医師の死後秘書の男性から死因を聞かされるという設定になっている上、

現実に起きた話である、ということが明記されていることだ。

 

恋煩いで亡くなる人が本当に実在したのか?

(亡くなる、と実在、という言葉の並列による違和感は見過ごしていただきたい)

 

しかし渡会医師の痛々しいほどの言葉たちを読んでいると、

そういうのもありえるのかもしれないと思えてくる。

 

「彼女の心が動けば、私の心もそれにつれて引っ張られます。

ロープで繋がった二艘のボートのように。

綱を切ろうと思っても、それを切るだけの刃物がどこにもないのです。」

 

恋と書くとなんだか幼く感じるけれど、

本当の恋というのは確かにそういう強引で、暴力的なものなのかもしれない。

その中では権力や金や名声などは全く役に立たないし、

ただただ非力な自分に気付くことしかできないのかもしれない。

 

行き場のない焦り、怒り、不安、そういうものが恋には含まれていると思う。

そしてそれらを解消する手だては、自分の手の中にはない。

理不尽なのだ。恋という気持ち自体が。

 

そういった気持ちにはもう出会わないと思っていても

ふと気付くと出会ってしまう。吸い込まれて行く。不可抗力。

 

しかしそんな渡会医師の苦悩をよそに、彼が愛した女性は何の慈悲もなく彼を裏切る。

報われない渡会医師。あわれな渡会医師。

家庭も、尽くしてくれた渡会も捨て、年下の彼と駆け落ち。とんでもない女性だ。

 

…本当に「とんでもない」のだろうか。

 

彼女も「恋」の犠牲者なのではないのか、という疑問が湧いてくる。

単に快楽を求める女性は満ち足りた家庭生活を捨てたりはしない。

渡会を魅了するような知的な女性であるならばなおさらだ。

彼女もまた、間違ったボートに繋がってしまった者の一人だったのだろう。

 

恋はステキなものだと、

幼い頃からたくさんの漫画や本から学んできたが

現実はこうだ。

 

ステキな恋愛なんて、ままごとのようなものに過ぎないことに気付かされる。

そしてままごとのような恋愛ほど退屈で無意味で無益なものはない

本当の恋に身を焦がして死んでいくことの方が、

そんな恋愛しかできない人生よりも幸せなのかもしれない。

 

恋に身を焦がして死ぬ、だなんて辛い死に方だと思うだろうか。

でも本当の恋が実らない場合、そしてそれにひどく傷ついた場合、

選択肢は「ゼロに接近すること」しかないのかもしれない。

 

 

最後にひとつ、渡会医師に反論したいことがある。

 

それは女性全員が独立しきった器官を持つわけではないということ。

知的で美しい女性には、あるいは備わっている器官なのかもしれない。

しかし、それは決して神秘的な、キレイなものではない。

それは持つべき器官ではないし、あまり使うべき器官でもない。

なにかを得ればなにかを失う。

その法則は真理であり、この独立器官を得ることで失う何かは大きい。

 

おそらく女性が「気持ち悪い」か「気持ち悪くない」かは

この独立器官に対する価値観の差異も一つの要素になる。

 

おそらく、若くて経験(数の話ではない)の薄い多くの女性には

独立しそこねた器官が備えられているのだと思う。

それが完全に独立するか否かはそのときの恋愛による。

 

男性には「独立した器官をもつ女性には気をつけろ」、

と忠告するしかないのだが(さながらカオルコさんのように)、

おそらく無駄なことだと思う。

理不尽な流れの中においては、

そういう忠告はまったく何の力も持たない。

 

理想の恋愛とか、素晴らしい恋愛物語とか、

そういうものは大抵「うまくいった場合」である。

たまたま流れた先に住むのにうってつけの島があっただけだ。

 

流れた先に穏やかな楽園があるとしても、

急な崖であるとしても流れるしかできないのだけど。

映画:『蛇にピアス』(原作:金原ひとみ、監督:蜷川幸雄)

 

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原作を読んだのは、確か中学生の時だったような。

母親が買ってきた文藝春秋に「蹴りたい背中」と一緒に掲載されていました。

2作を一気に読み終えた中学生の私がどこまで内容を理解して、何を思ったのか、気になるところですが、、、全く覚えていません。たぶん、文字を追っていただけ。

 

映画の「蛇にピアス」といえば吉高由里子の濡れ場というイメージが強く、まあそれはその通りだと思うんですが、それでもそのイメージを超えるくらい、彼女の演技と内容に圧倒されてしまいました。

 

19歳、痛みだけがリアルなら 痛みすら私の一部になればいい。

というキャッチコピーにもあるように、「痛み」が中心にある物語。

主人公ルイが生きがいにしているのは肉体的な「痛み」。

何がきっかけで普通のギャルだった彼女が「痛み」を求め、

スプリットタン(舌先が二つに分かれた舌)や入れ墨に

強く惹かれたのかは分からない。

分からないけど、19歳ってちょっとした出来事、

周りからみたら「よくある話」のせいで酷く病んでしまう。

気付いたら数ヶ月前まで予想していなかった自分になっている。

そういう時期だと思う。

 

「痛み」とは肉体的なものだけを意味するのか?

キャッチコピーの前半の痛みは肉体的なもの、

後半の痛みは精神的なものを指すのは明らか。

でもルイが求めていたのは肉体的な痛みだけだったのだろうか。

 

ルイはクラブで知り合った彼氏アマ(高良健吾)と

不満はあるものの幸せな生活をする中で、

彫師でアマとも信頼関係があるシバ(井浦新)とも関係を持つ。

サディストのシバはルイが肉体的、そして精神的に

苦しむ姿を見て喜んでいたのではないだろうか。

アマという存在が2人に関係を保っていたものだったのではないだろうか。

アマがルイとシバの関係を心配して涙を流した日、

彼女は浴びるように酒を飲んだと言っている。

自分のしたことが他人を苦しめることを知ったルイは

痛みへの欲望とアマへの愛情の中で葛藤していたのだと思う。

そして、アマは不慮の死を遂げる。

 

「川」が意味するもの

アマの死から立ち直り、最後にスプリットタンを完成させようとするルイ。

痛みはまだ彼女を少しだけ蝕んでいるし、

アマを残忍なやり方でレイプし、殺したのはシバさんかもしれないと感じ取っている。

結局スプリットタンは完成せず不格好で大きな穴を残した。

水をごくごくと飲みながら、

「私の中に、川ができたの。」

とシバにつぶやくルイ。

 

舌にできた穴を水が通過する様子を、川と捉えたのか。

それとも、もっと別の何かを意味しているのか。

 

アマの死から立ち直ったルイは、それまで目を入れていなかった

入れ墨の龍(アマを表す)と麒麟(シバを表す)に目を入れる。

「(画竜点睛の逸話から)目を入れたら、飛んで行っちゃいそうだから」

と言って目を入れなかったルイが、ここにきて目を入れてほしいと頼む。

 

そして、「シバさんがアマを殺したとしても、もう大丈夫」と言い聞かせる。

 

川は一方向にしか流れない。

そして流れを止めずにすべてを巻き込んで進む。

そんな流れの中に、ルイは身を置いたということではないだろうか。

 

そのあとにシバは嫌な夢を見た、と数人から怒られる夢の内容を話す。

彼もまたひとつの快楽に依存し、そこに生きる意味を見いだす弱い人。

そしてどこかで、自分がしたことの罪にさいなまれているのかもしれない。

 

ルイは最後に横断歩道の真ん中でおなかを抱えてしゃがみこんでしまう。

妊娠を思わせるエンディングだが、 

それでももうルイは痛みに生を求める弱い人間ではないはず。

 

 

見終わったあと率直に思ったことは、

蜷川実花監督の『ヘルター・スケルター』に似てるなー」

ということ。

 

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認められたい、という気持ちから何かに依存するという点は同じではないでしょうか。

でもどちらとも最後に女性は前を向いて歩いています。

少なくとも私はそう思いました。

女ってやっぱり強い。

眩暈がするような後味の中でそう感じました。

 

誰だって社会には不満をもっているし、

その中で埋もれて行くことに不安を感じている。

だから自分がいる証、場所、実感がほしい。

そんなこと考えるのは、地球上の生物の中ではきっと人間だけでしょうね。

そしてこれは昔から多くの人の頭を悩ませてきたこと。

 

でも結局答えは自分の足で立つこと。

自分で自分の居場所を認識すること。

他人から与えられるものに依存しないこと。

でも、それでもやっぱり

人は生まれながらにして弱い存在だと、私は思います。

映画:『永遠の0』

最近それなりに色々と考えることがあって文章もうまくまとまらない日々が続きましたので(文豪きどり)、映画を観に行ってきました。

 

話題の「ゼロ・グラビティ」と妻夫木くん目当てで「ジャッジ!」と迷ったのですがなぜか発券したのは「永遠の0」。

原作を読んでからキャスティングを見て、「う~~~ん...」といまいち良いイメージが湧かなかったので視野になかったんですが、やはり気になったので。

 

原作が素晴らしいだけに一定値以下にはならないだろうな~とコカコーラの紙コップからジンジャエールを吸い上げながら思っていましたが、まあその通りですね。

原作の方が良かったと思う点もあれば、映画を見ながら初めて理解したことや見えてきたこともあるので書いておきます。

 

「こんなとこあった??」

原作という存在がある以上もうこんなことは言う必要もないのかもしれませんが、やはり原作にはないシーンがいくつか見受けられました。

一番目についたのは合コンに呼ばれた三浦春馬演じる主人公が大学の友人に「特攻隊はテロリストと同じ」という論を展開されて逆上するシーン。

そのあとヤクザの親分のところへ行って重要な話を聞きに行くというつなぎになる大事なシーンなのですが、ちょっとチャラチャラしてるのに知ったかぶったような大学生にこの論を主張させたのは大きな違和感がありました。。。

おそらく戦争を知らない若者への戒めだとは思うのですが、主人公が怒るのではなく、原作のように記者であるお姉さんが戦争経験者に質問を投げて怒鳴られるというところに意味があったのでは…。

しかし「特攻隊がテロリストだろうがテロリストでなかろうがどっちでもいい」と言い放った大学生の言葉が妙にリアルでした。

おそらく映画では現実の世界との対比に重点が置かれていたのではないかと思います。

 

今回映画でかなり目についたのは特攻が始まってからの宮部のやつれ具合。

原作でも「人が変わっていた」と表現されていたと思いますが、たたみの部屋の隅で一人三角座りをして無精髭を生やし、目を赤く腫らしていた姿はあまりにも変わり果てていて驚きました。

後にヤクザの親分となる景浦を怒鳴りつけ、さらに弱音まで吐く宮部。

こんなんだったかな?と疑問に感じたのですがおそらく特攻を選択した理由に大きく関わるこのシーンをきちんと描きたかったのかな。

 

ラストシーンでは現代の「日常」が流れる中で

岡田准一演じる宮部久蔵の乗る零戦が主人公の目前に幻想として現れます。

伝わってくるんですが、まあここまでしなくても良かったのでは…。

その前にもダイジェストのようにこれまで出てきた戦闘員や宮部と関わった人々が映し出されるのですが、完全に涙が乾いていく時間でした。

 

「筋肉!!!」

最初キャスティングを見たとき、

「岡田くんか~イケメンではあるが宮部さんは背が高くてがっちりした男性の設定だったからな~」

ともやもやしていましたが、これは映画を見て払拭されました。

潔い角刈りはもちろん、かなり体作りもしてありました。

末期がんにかかっていた井崎からの証言で宮部が夜な夜な欠かさず筋トレをしていることが分かるのですが、そのシーンでの岡田くんの筋肉のすばらしさはため息が出るほど。惚れました。

体作りももちろんなんですが、CGが多い中、それを感じさせない演技。前述したやつれた宮部も、家庭にいったん帰る宮部も、特攻にのぞむ宮部も、すべて一転の曇りもなく演じきっていたように思います…もうジャニーズの技量じゃない。俳優さんでした。

 

ぴあのインタビューでも意気込みを語っています。

岡田准一、難役挑み「眠れぬ日々」 零戦パイロット演じた『永遠の0』が完成

http://cinema.pia.co.jp/news/159874/52611/#pagetop

 

 

「“0”の意味」

今回映画を見て改めて題名になっているゼロの意味を考えてみました。

色んな方が議論されてるとは思いますのであくまで私の見解。

零戦

もちろん零戦の0という意味も含まれていると思います。

ただ、なぜ「永遠」なのかは零戦からは分からない。

『生還率0%』

台詞にも出てくるように、特攻というのは九死に一生というものでもない。

成功=死ということで、生き残る可能性はもともと0%。

ということで特攻の生還率0%の、0。

死が永遠であるということや特攻の生還率が0以外にはなり得ないことが「永遠」という言葉にも繋がりそうです。

『国家への影響が0』

これは私が絞り出したもう一つのゼロです。

宮部が死に急ぐ仲間に「お前が死んだら悲しむ人がいるだろう!」と説得します。

国家にとってはただのひとつの「死」だが家族にとっては大きな悲しみと影響を与える悲惨な「死」になる。

つまり家族や恋人にとっては重要な意味を持つ「ひとつの死」が国家全体にとっては何も影響を与えない、小さく些細な「ゼロに近い死」になってしまう。

特攻では敵艦に達する機が少なかったとも言いますから、本当に「ゼロ」だった死も中には存在するのだろうと思います。惨い話ですが。

「特攻なんてやる国はもう終わりだと思った」「宮部、犬死にする気か!」

と親分の景浦が言うように、特攻をして「勝てる」という望みは本当に薄かったのだと思います。

特攻で生まれた死が国家に与える影響は、信じたくありませんが「0」だったのでは。

 

空前のヒットを記録した『永遠の0』。

なんと350万部達成だとか。

私も大々的に話題になる前から本屋さんで見かけ、熱の入ったポップを読みながら気になってはいたのですが、分厚さと得体の知れなさと聞いたことのない作家名からなかなか買えずにいました。

そして気付くと大ヒット。どこの書店でも店頭に置かれている。

なんだなんだ、と手に取ってページをめくると特攻してくる零戦の様子が描かれている。

その勢いと得体の知れなさから気付けばレジに持っていっている。

何かのインタビューで拝見しましたが、やはり百田氏もマーケティングに関してはよくよく考えられていたようで、

「書店に並べられたときの見え方を考えた。目立つためにはどんなタイトルが良いか考えた。」

とおっしゃっていました。

テレビ番組の作家さんの経験を活かした発想力。

確かに「零戦」や「戦争」「特攻」などのキーワードが入っていたら

「ああ、なんだ戦争ものか」

と思われ手にとられなかったかもしれません。

映画では葬式のシーンからはじまりますが、小説は特攻を米国側から捉えた強烈なシーンから始まり、序章を読み終わると続きが気になり、立ち読みで読み終えられる文量でもないので買ってしまう。

読み進めると謎解きのように次々と浮かび上がってくる「宮部久蔵」の姿。

そしてだんだんと姿を現す主題である「愛」の形。

そして読み終わったあとに気付く、この小説が抱える情報量の多さや研究の深さ。

タイトル、構成、情報、主題など隅々まで手が込んでいるこの作品。

もしかしたら百田氏にとっては売れて当然だったのかも…?

しかしヒットの理由を考えるのは簡単ですが、ヒットを生み出すのは難しいこと。

 

多くの人が「永遠に残して行くべき物語だ」と言う理由が、今日映画を見て再確認されました。

小説を読んだのは半年ほど前の話ですが、すでにそのとき読んだあとに抱いた感想や思いは薄れていたのを実感しました。

私たちは「戦争」を知らない。

だから当時の若い立派な人々より命や人生に対しての考えが薄いのかもしれない。

そしてその人たちのように考えながら生きることはできないのかもしれない。

でも、当時の人達から「学ぶ」ことはできる。

そして今の私たちに求められることは、「学ぶ」ことなのだと。

 

そんなことを、思いました。

 

映画館から出ると、同じく映画を見終わった老夫婦が手をつなぎながら寒い冬の夜道を帰っていました。

そのゆっくりとした後ろ姿がとても温かく、愛情に溢れて見えたこの感覚が、明日も消えないでいたらいいなと思うのでありました。まる。

 

まだご覧になっていない方のために。(さんざんネタバレしたあとですが)


映画 『永遠の0』 予告編 90秒 - YouTube