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大海を知った蛙の行く末

井の中の蛙、大海を知らず

という有名なことわざがあります。

井戸の中の蛙に海の話をしても全く信じない、

という話から視野が狭く広い世界を知らないということを表します。

 

中高時代6年間という多感な時期を中高一貫の女子校で過ごした私は、

まさにその蛙だった

と最近の会話の中で思ったので考えてみました。

 

古風な伝統と校則のある窮屈な学校生活と「女子だけ」という環境の中にいる6年間、考えることはその環境の中のさらに些細なことばかりでした。

校則を破って先生に呼び出されたことをどう親に言い訳するかとか、

仲の良い友達が違う子と仲良くなり始めて不安だなあとか、

もっと漫画について詳しくなってあの子たちの話に入ろうとか、

そんなことばかりを考えながら自転車をこいで下校したものです。

学校生活にもだいぶ慣れてきて、考え方も少し落ち着いた中学3年生のころから私は行事ごとにリーダーを務めたりするようになりました。

勉強もコツコツとやるタイプではありませんでしたが、テスト前に集中すれば良い成績が取れるほどの学力もあり、いわゆる「目立つ」タイプの生徒だという自覚もあった私は将来への可能性を疑わないまま、受験を乗り切って大学に入学しました。

下宿を伴う大学生活は本当に自由で、まさに私が望んだ大学生活が目の前に広がっていました。

だけど「何か違う」のは自分自身の中にあったんです。

 

おしゃれな友達、関西弁、たくさんの同年代の男性、なんとなく「すごい」先輩達、新しいものだらけの中で私は「私らしさ」を失っている自分に気付いたのです。

もっと私らしくいたい!

しかしその「私らしさ」さえもやがかかった曖昧なものでした。

仲の良い友達と通い慣れた学校の教室の中で堂々と振る舞う自分、それが「私らしさ」だと思っていた私。

その環境から一歩出ただけで「私らしい」と信じていた「自分」が一瞬で崩壊したことに気付いてしまったのです。

そして、そんなふうに崩壊した「私らしさ」なんて「私らしさ」と言えるのだろうか。

新しい場所で同じ状況でも「自分らしく」振る舞うことのできる子はたくさんいるように見えました。なのに、私はできない。

言いたいことを言わず、猫をかぶる自分自身にも腹が立つ日々。

さらに後期試験で合格していたからと鷹をくくっていた学業分野においても、国際系の学部であるためか英語を得意とする人が多く、得意科目であった英語が普通レベルであるということを実感。

こうして学業分野においても「自分らしさ」を失います。

悶々。

大学という場に出てきて初めて自分が「狭い環境にいたこと」を思い知らされる日々。

 

まあそうは言いつつも、良い友達や仲間に救われ、約3年経った大学生活は無事に充実した日々となりました。

大学という荒波に揉まれながら「私らしさ」も少しだけ見つけられてきたような気がする。

 

そして最近になって、中高時代に仲の良かった友達と思い出話に耽る機会があり、3年前の私を思い出すことになったのです。

「本当、狭い世界の話ばっかりしてたよね。」

と笑いながら話すその友達も、高校時代とは違った雰囲気がありました。

彼女も彼女なりに色々考えたり苦労したに違いない。

お互い連絡はしない性格だったので大学での日々の相談等はあまりしませんでしたが、同じような悩みを抱えていたということが伝わってきました。

「ね。井の中の蛙って感じ。」

母校のおかしな校則やその他の今となってはくだらない、クラス内のいさかいや対立についてを笑い話にし、会話は自然と将来の話に移っていきました。

就職の話や、今付き合っている彼の話、そして結婚とその後の人生の話。

「こんな話するようになったんだね。」

どこかくすぐったく、でも真剣に話をする私たちは「なんだか年を取った」気がしていました。

就職活動をする中で将来のことを少しずつ具体的に考えるようになった今、将来の話は急にリアリティを持って、高校時代の話が本当にはるか遠い昔のように思えました。

「そういえば、社長になるとか言ってたよね。Marieは本当になるかもしれないとも思ってたけど。あと海外行ってバリバリ働きたいとかも言ってた。」

友達にそう言われて私は急に気恥ずかしくなり「そんな話もあったね。」と笑ってかわしながら、何か心にもやっと残るものを感じました。

 

「どうして社長になるという夢を捨てたんだろう?」

「どうして英語の勉強をやめたんだろう?」

たしかに「社長になりたい」とか「英語を勉強して海外で働きたい」と思っていた当時の私は浅はかで、世間知らずで、情報も持たないただの女子高生でした。

しかしどうして人に言われてからしか思い出せないほど奥の方までこの思いをしまいこんでしまったんだろう?

おそらく、「無理だ」と思ったからでしょう。

そう思ったのは大海を知ったからです。本当に広い広い、私が見たこともないような生物がたくさんいる海を知ったからです。

さらにその海がほんの一部の海でしかないことも分かってしまっているからです。

もちろんその二つの夢が本当に自分がしたいことからズレてきているというのも理由の一つです。

でも、考え方として

大海を知った上で「リアリティのある将来」を考えなければならない

という思いが強くなっている。

まるで大海を知った蛙が井の中に戻っていくみたいだな、と感じてしまうのです。

 

井の中の蛙、大海を知らず」

には続きがあります。

 

「されど、空の深さを知る」

 

これは日本で付け足された一文で、これにより

一つの場所にとどまることで、より深い知識を得ることができる

というポジティブな意味のことわざになっています。

 

確かに井の中の蛙にだって長所はあるはずですよね。

 

あとは、大海を知っても尻込みしない蛙になりたいものだと思うものです。