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映画:『アデル、ブルーは熱い色』

 

話題作、『アデル、ブルーは熱い色』を鑑賞。

3時間、揺さぶられ続けた映画でした。

 

簡単に内容などがまとめられているのではっておきます。

映画史上に残るであろう2014年最大の問題作『アデル、ブルーは熱い色』 - NAVER まとめ

 

映画そのものに関してはたくさんの方々に絶賛されすぎているので私が言葉を挟む隙間などいっさいありませんが、

映画を観ながら考えたことをここに書いておきます。

※ ネ タ バ レ 

 

 

Blue Is the Warmest Color

Blue Is the Warmest Color

 

原作の白黒漫画の中では「青」だけ色がつけられていたように、

「青」という色(が表すもの)がこの作品の中心にあることは間違いない。

では「青」は何を表すかというと、情欲、だと思う。

一般的に「青=食欲、性欲を減退させる色」と考えられているようだが

エマを表す色としてこの作中では「熱い色」とされている。

 

こんな具合にこの映画では一つ一つのモノや言葉、仕草に

なんらかの「意味」が込められている。

だから3時間の間、ワンシーンたりとも見逃せない緊張感がある。

 

基本的にずっと主人公のアデルの生活を追って作品は進んで行きます。

食べる、寝る、性交する。

人間の三大欲求が丁寧に、きれいに、そして貪欲に映し出される。

「欲」を満たす彼女を映し出すとき、

その表情に、目線に、仕草に、目が離せなくなる。

かと思うといきなり学校へ行くシーンに切り替わったりする。

現実との切り替わりがまたリアルに感じる。

 

たくさん食べ、ぐっすりと眠るアデルの姿を観ながら、

私は澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』を思い出しました。

 

快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)

 

 

かりに幸福が向こうからやってきたとしても、受け取った幸福などというものに、ろくなものはない。それはひからびた、店ざらしの幸福です。それよりも、自分で作り出す快楽、実践のうちからつかみ取る快楽にこそ、ほんとうの魅力があるのではないでしょうか。

水の中から素手でつかみ取った魚のような、ぴくぴくした、生きのよい快楽!(第一章、幸福より、快楽を より)

 

こんな調子で、自分から「快楽」を求めて行くことの必要性を説いたこの本。

快楽といっても性的な快楽のみを指すわけではありません。

”ブーム”や”世論”に乗っかることで「しあわせだ」と思っている、

その考え方に批判の矛先を向け、

人間としての真の「幸福」に目を向けた

著者の考え方には納得させられる部分が多い。

 

自分で味わってみなければ、何もわかりません。新しい快楽は、自分で味わい、自分で発見すべきものだということです。(第六章、あなたも快楽主義者になれる より)

 

著者はさんざん歴史上の人物のエピソードをのせたあとで、こう締めくくっています。

 

そこでアデルの話に戻るのですが、、

アデルは快楽主義者だったのかと問われると答えは俄然ノーなわけです。

 

でもその素質はあった、と言えるのでは。

 

ある日、デートに向かう途中、アデルは青い髪の女性とすれ違い、世界が一瞬止まったかのように心奪われる。彼女を夢にまで見て、思い悩むアデル。

出典:http://unzip.jp/pickup/adele/

 

とあらすじには書いてありますが、

このときすでに青い髪の女性(=エマ)は女性と肩を組んでいちゃいちゃしているわけで、

どう見てもレズビアンなわけです。

そんな彼女に心を奪われるアデル。

いけないこと、タブーと思っていても魅かれてしまう。

その貪欲さがアデルをよく表しています。

 

そしてアデルがエマへの感情を無視できなくなるのがそのあとにみる「夢」

夢って無意識の中の考えや欲望を映し出すってよく言いますよね。

見事無意識の中から自分の真の欲望を見つけ出したアデル。

 

大抵の人がおそらく「タブーを犯す夢」をみたことはあると思います。

目が覚めてそれを思い出し、嫌な気分になってそれを急いで記憶のゴミ箱へ捨てます。

もしくは残しておきたい衝動を抑えて無理矢理くしゃくしゃに丸め、ゴミ箱へ捨ててフタまでしてしまうわけです。

「もう二度と出てくるんじゃないぞ、それはイケナイ欲望なんだ」というように。

しかしアデルはそれをゴミ箱へ捨てるどころか、

綺麗に折りたたんでポケットへ入れ、現実世界へと持ち出してしまうわけです。

澁澤氏に言わせれば「天晴れ!」とでもいうところでしょうか。

 

一方で、アデルは家庭で「THE・保守派現実主義」の教育を受けてきている。

特に子どもが大好きでたまらない、というわけでもなにくせに先生を目指します。

サルトル実存主義を信条とするエマはこれに納得がいかない。

「文章が上手だから、詩人になればいいのに」

と何度もエマに迫ります。

 

ここらへんの価値観の違いと愛の難しさに目を向けた記事がこちら。

カンヌ・パルムドール『アデル、ブルーは熱い色』公開 ケシシュ監督の美学と哲学が美しい映像になった。 | dacapo (ダカーポ) the web-magazine

 

たしかに「価値観の違い」は恋愛至上最大のテーマ。

エマの個展をひらいてから、

その「価値観の違い」はアデルの心の中で大きな空虚を生んでいきます。

 

2人の家で開かれたエマの個展、

彼女の友人たちに料理や酒を振る舞うアデル。

最初はエマのパートナーとして認められることに喜びを感じるものの、

あまりにも違う世界で生きてきた人々に囲まれ、孤独を感じます。

 

周りでは「あなたの幸福が私にとっての幸福だとは限らない」という趣旨の

抽象的な会話が繰り広げられ、その後ろで自分が作ったパスタを皆に分け与えるアデル。

そのパスタはかつて彼女自身が実家で何度もおかわりをしていたパスタのように見えます。

 

自分がかつて好きなだけ貪るようにして食べていたパスタ。

それを、自分を孤立させる人々、エマを自分から遠ざける人々に分け与えることは、

おそらくとてつもなく屈辱的なことだったでしょう。

 

また、この頃エマの髪色はもうブルーではなく、金髪になっています。

一方で、アデルは鮮やかな青い色のタンクトップを着ている。

すでにこのとき、燃えるようだったエマの情欲は、アデルの方へと移ってきているのです。

 

その後、アデルが寂しさと孤独感に耐えきれずした浮気が原因となり2人は破局。

 

涙に明け暮れるアデルがとった行動は、

もう一度エマに自分への情欲を沸き立たせるという大胆な行動でした。

しかし既に新しいパートナーを持つエマはその誘いにはのりません。

一度はキスに積極的になり、「お?」と思わせられるも、

「今の幸せを守りたい」というありきたりかつ興ざめな返答。

 

”新しいエマ”の中に、かつての激しい情欲は微塵もない。

 

ついでに言ってしまえば新しいパートナーには子どもがいる。

子どもは安定の象徴であり、女性にとっては”女の部分を捨てた”ということにも繋がる。

情欲の矛先がその新しいパートナーに向かったとは考えられません。

その変貌ぶりはエマの新しい作品にもあらわれている。

 

「昔のエマ」と「新しいエマ」が混同したような個展が最後のシーン。

そこに綺麗な青のワンピースを着て訪れるアデル。

付き合っていた当時、エマが

「ビジネス的なアートを求めてくるばっかりで、好き嫌いの基準さえ持たない」

と罵倒していた業界の権力者の支援によって開かれた個展は大成功の様子。

 

また、新しいパートナーとの幸せぶりも見せつけられてしまう。

 

そこでやっとあきらめがついたアデルは、

「青」を背負いながら、エマから遠ざかって行く。

 

自分のやりたいことを突き詰めずに保守的な道を選んだアデルを

批判するような記事も見かけましたが、

私はエマも結局は現実主義のアーティストとして生まれ変わったんだと思う。

どこまでも「美術」の中の「美」を愛し、

さらにアデルが持つ「美」、そこから生まれてくるものにこだわっていたエマなのに。

 

結局2人とも、大事な何かを失ってしまったことには変わりないのだと思う。

 

遠ざかって行くアデルの後ろ姿と、その綺麗な青色を見つめながら、

「そういえば『欲』は年を取るにつれて失っていくものだからなあ、、」

となんだか妙に納得してしまった。

 

 

情熱的で美しく、痛々しくて脆い。

そんな「愛」を見せつけられたと思う一方、

「欲」がいかに真っすぐで美しいものかを突きつけられたような気がした。

 

 

 

最後に作中の歌を。

一度聞いたら頭から離れない曲です。

そして、ちょっとだけ、怖い。


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