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本:『白ゆき姫殺人事件』(湊かなえ、集英社)

 

白ゆき姫殺人事件 (集英社文庫)

白ゆき姫殺人事件 (集英社文庫)

 

 

『告白』も『夜行観覧車』も本書も一日で読み通した。

もちろん世界に引き込まれるというのもあるけれど、

なにより「早く読んでしまわないと」と思う。

 

それは早く事件の真相を知りたいからでもあるけれど、

なによりそこに描かれている「人間の本質的な厭らしさ」を見つめ続けたくないからだと思う。

 

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『白ゆき姫殺人事件』は美人OLが残酷な方法で殺されるという話題性のある殺人事件を軸に進められて行く。

週刊誌の記者が容疑者をほとんど特定しながらこの事件を追い、その内容を週刊誌とネットを使って公開していく。

他人の嘘か真か分からない証言から浮かび上がってくる容疑者の像。

”匿名”という魔力に支えられるネット上での論争は加熱し、情報に惑わされながら意見をコロコロと変えて行く容疑者の知人と、若者たち。

 

映画館で流されているCMで、著者の湊かなえさんは

「他人から見えている自分と自分が思っている自分の間にある差を描こうと思った」

(まるでその台詞を五分前に丸覚えしましたと言わんばかりに)淡々と述べていた。

 

「事件をおもしろがる世の中」や

「ネット上での匿名性を利用した無責任で根拠のない発言」、

「自己承認欲求」、「自己保身」、

など社会の中に潜む問題を皮肉をこめて書き表した本だと思う。

 

もしも自分がひょんなことがきっかけで事件の容疑者になったら

私が関わってきた人たちは一体どんなことを言うんだろう。

平凡な言葉を並べられるだけだろうか。

それとも、今まで自分では気付いたこともなかったような言葉が飛び出してくるのだろうか。

 

「他人から見えている自分」と「自分が思っている自分」に

大きな隔たりがあることくらいこの小説を読まなくても分かる。

 

私がこの小説を読んでふと気付いたこと、というか再確認したことは

本当に他人に興味を持っている人などいないということ。

 

そのことを嫌という程認識させられるのがこの小説だ。

容疑者として挙げられた女性の地元で行われた取材がそのことを在り在りと認識させる。

 

ただのクラスメイトが卒業アルバムを持ってきて、当時のことをおもしろおかしく話すのはまだ分かる。

近所のおばさんが昔あったことを大げさに話すのもよく分かる。

しかし両親が娘のことを庇うことを忘れ、この事件を自分たちの間に起こった問題(父親の不倫)にすり替えてしまったところは驚きだった。

結局、人は自分のことで精一杯で、他人のことなど自分のことの延長線上にしかないのではないかと思わされてしまう。

 

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少し前に、twitter

 

友達が少ないのは他人に興味がないからなのかも。

本当は他人のことなんてどうでもいいってどっかで思ってるんだよね…

 

 

という感じのつぶやきを見た。それも一回ではなく、何回か、違う人のものを。

(そのほとんどすべてが特に友達が少ない人の発言ではない)

 

「他人に興味がない自分は少しオカシイ、もしくは少しイヤなヤツ。」

そんな思いがあったのだろう。

 

しかしいくらネット上で他人との会話が多くても、

誕生日に「おめでとう」を欠かさなくても、

何かあったら「大丈夫?」と言っていても、

その人が本当に他人に興味を持っていると言い切れるだろうか?

 

その疑問はもちろん自分の身にも跳ね返ってくる。

そう、自分は他人に本当の意味で興味を持てないと気付いたとき、

もう一つ気付かなければならないこと。

それが、誰も本当の意味で自分に興味を持っていない、ということ。

 

あくまでその人の延長線上に自分がいるだけであるということ。

 

でもそれで孤独感を感じる必要はない。

ただ気付くことは必要なのだと思う。

 

大事なのは自分が他人の延長線上にいる自分に惑わされないこと。

 

そう思っていても、他人からある部分で理解されたいと思うのが自己承認欲求というやつなんだろう。

私もこうして文章を書いて、着々と他人の延長線上にいる自分を作り上げる。

 

それが自分に刃を向ける自分になるかもしれないと怯えながら。なんて。