直線AB

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ユメとゲンジツのはざまにいて

※少し共通する話でもあるので、過去記事を張っときます。

完全に自分の考えしか書いてないんですが時間があればどうぞ、、

大海を知った蛙の行く末 - 直線ABぼくら社Blogで一度紹介していただいた記事です)

 

 

「誠に遺憾ながら・・・」

 

心臓をバクバクさせながらメールを開き、

なぜか一番最初に視界に入ってしまったその言葉に絶望しながら全文を読む。

 

「今回は誠に遺憾ながら、ご期待に添えない結果となりました。」

 

某大手出版社の、2次面接不合格のオシラセ。

やたらとまどろっこしい表現で、

でもメールを開いたその瞬間になんとなく雰囲気として

結果が伝わってくる不思議な文章。

 

なんとなくこうなるだろうと思っていたけれど、

どこかでまだ期待していたのだろう、どうしても心が沈む。

 

自分を納得させるため、

就活生が情報交換する掲示板を開いてみる。

 

「お祈りされました、次いかれる方頑張ってください!」

 

「分かってたけど祈られてしまいました、残念です。」

 

”お祈り(=不合格)”は就活で学んだ隠語のひとつだ。

書き込みを見て、やはり仲間は多かったみたいだ、と

沈み込んだ心を無理矢理引き上げてみたりする。

 

「お祈りでした~まあ、夢を見させてもらったという感じです!」

 

なぜかこの書き込みだけが、引き上げている最中の心にひっかかってしょうがなかった。

 

「夢」?

わたしは21歳にもなってこの氷河期の中、

「夢」を追っていたのか??

 

大手出版社の採用人数は5~10人程度であるのにも関わらず、

応募者は数千人にのぼる。

内定をもらうのはまさに「宝くじの確率」。

運が重要だと言う人もいるようだ。

 

まあ、今更倍率の話を引っ張り合いにだすつもりはないし、

何らかの条件を指して「運だ」と語りたくなる先人の気持ちも分かる。

それに周りからしたらそんな企業に労力をかけること自体、

「夢見がち」だと言われてしまうだろう。

でも自分で自分のしてきたことを「夢追い」だと言うのには抵抗がある。

 

 

そもそも「夢」ってなんだろう?

 

仮説1:魔法とかそういう、非現実的なもの

これはディズニー映画やハリーポッターの世界で感じることができる夢。

寝ているときにみる素敵な夢もこれに分類される。

 

仮説2:物心がついて実現不可能とあきらめたもの

小学生の頃に描いた夢のこと。

プロのスポーツ選手、芸能人などの夢がこれに当たる。

 

仮説3:実は本当にやりたいことではなかったもの

花屋さん、ケーキ屋さんなどが当たる。

多くがイメージを夢にしている。

 

仮説4:夢だと思わないとやっていられないので夢としたもの

夢だと思ってなかったのに夢にしたもの。歳をとるほどこの夢が多くなる。

そしてまだそれを現実世界で追っている人を否定したくなる。

 

 

私にとっての大手出版社への就職は、仮説3に該当するものです。

なので引き戻ることはありません。

なんだ、結局「夢」だったのかと思われると思いますが、

「夢を見させてもらった」と語った人が指す「夢」とは

大きく色が異なる(と自分では思っています)。

 

もちろん、そう語った人が指す「夢」が仮説4の「ユメ」です。

 

 

就活をしていて、電車の中のサラリーマンの方々への見方が大きく変わったのはひとつ、大きなプラスの資産となりました。

今まで「ツマラナイ」と決めつけていた大人たちの中の多くが

社会を支える重要な仕事をこなしている。

おそらくすんなりと大手に内定をもらっていたら感じ得ないことだったと思います。

 

それでもなりたくない「ツマラナイ大人」は存在します。

それが仮説4の「ユメ」をたくさん持った大人。

 

「ユメ」がたくさんあるということは、

どんどん自分の世界を狭めているということだと思うのです。

「ユメ」と括った時点で、それは自分と関係のない世界になってしまうから。

自分がいる世界だけが「ゲンジツ」になってしまうから。

 

でも、そういう「ツマラナイ大人」になる可能性は

実は同世代の方が高いのではないかとも感じます。

 

「さとり世代」と言われるように、

不況の就職難、格差社会の中を生きている私たちは

いつもどこか「あきらめる」ことを良しとしているような。

 

多分、悔しいと思うことが、「悔しい」のです。

後悔なんてものはしたくなくて、だから失敗に色々な理由をつけます。

そっから這い上がろうなんて、「悔しい」をバネにしようだなんて、

かっこわるすぎて到底できない。

 

だからできなかったことは「ユメ」の世界へと放り込んでおくのが一番。

 

でも、そうしたって「しあわせ」にはなれるのだから問題ない。

 

・・・というのが今の日本なのだと思います。

 

でもその「しあわせ」の中でだって、

なんとなくどこかに焦燥感がむくむくと湧いてくる。

「ユメ」にした世界から漏れ出てきた何かが

自分の心の中にぽっかりと穴を開けるときが

絶対に、あると、思う。

  

心のバランスを保つために、

色んな考え方をするのは良いことだと思います。

現状に満足する姿勢だって、必要なことだと思います。

 

でも、本当に大切にしなきゃいけないものは

大切にしておかないといけないなあ、と思います。

どこかに自分の大切なものをしまっておくスペースを、

自分の理想を掲げ続けるしぶとい心を、

保っておかなければいけないんだと思います。

「ユメ」の世界になんでもかんでも放り込みつづけたら、

自分の世界はすごく小さなものになってしまうから。

 

 

 

※すこし参考にさせていただいている本(影響を受けている本)

絶望の国の幸福な若者たち

絶望の国の幸福な若者たち

 

 

暇と退屈の倫理学

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