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本:『舟を編む』(三浦しをん、光文社)

 

舟を編む

舟を編む

 

 

年末に古本屋で数冊まとめ買いした本の中の一冊である

舟を編む』がここ最近で一番のヒットだったので今更感がありますが感想を書き留めておきます。。。

 

あくまで私がこの物語に

「引き込まれた理由」を考えてお決まりのように3つにまとめてみましたた。

 

(1)辞書という主題と使われる言葉

(2)馬締さんの独特なキャラクター

(3)「普通人」西岡くんの描写

 

(1)辞書という主題と使われる言葉

まず、どうしても挙げなければならないのがこの本の主題について。

辞書編集という斬新な切り口でものづくりを描いた点はどこでも高い評価を受けています。2012年の本屋大賞に輝いたのもこの主題の魅力が大きいのではないでしょうか。

また、主人公を含めて辞書に関わる「言葉好き」の人々から発せられる言葉が独特で、「さすが!」と思わされるものばかり。

辞書を「言海を渡る舟」と表現されているのがやはり一番印象に残っています。

主人公の馬締くんが「あがる」と「のぼる」の違いについて思いを馳せたりもするのですが、そういった言葉に関しての考察もとても面白い。

日本語の紙辞書など小学生以来開いた覚えがありませんが、辞書を読んでみたくなります。「辞書」への興味が自然と湧いてくるのがこの本の大きな魅力。

 

(2)「馬締くん」の独特なキャラクター

学生時代から言葉が好きであったという筋金入りの言葉好きである主人公・馬締(まじめ)くんは、現実世界にいそうでいないキャラクター。

言葉に対する異常なまでの興味を持ちながらも、他人への思いやりを持ち合わせていて、人を愛すという能力も兼ね備えた馬締くん。のちのち紹介する西岡くんが評するとおり、「結局女性が好きになってしまうタイプ」の人間だと思います。

容姿や生活が少しだらしなくても、何かに夢中になって全力投球できる男の人はやはり魅力的だし、さらに恋愛に初心で謙虚で古風なラブレターを書いてしまうくらい一途ときたら多くの女性は愛せずにはいられない存在だと思います。

「馬締くんを持って帰りたくなりました!」

と衝撃的な一言感想が本の帯に掲載されていましたが、気持ちはよくわかるし、この感想を選んだ意味も何となく分かる。

西岡くんが彼から「何か」を学んだように、多くの男性もこういった男性から何かを学んでみてはいかがでしょうか…と大口をたたいてしまいました。すみません。

結局のところ「馬締くん」は女性が作り出した妄想上の存在であると思います。がしかし強く惹かれてしまいます。

 

(3)「普通人」西岡くんの描写

馬締くんをべた褒めした後でなんですが、私がこの本の中で惚れてしまったのは西岡くんです。

言葉好きが集まる辞書編集部の中で、彼はいわゆる「普通」な人。

大学時代に酔った勢いで関係を持ってしまった女性とだらだらと縁を持ち続けながらも違う女性とも短期間ではあるけれども交際をしたり、、、という私生活の乱れようがなんとなく今の時代によくいそうな成人男性の像を思い浮かべさせます(悲しきかな)。

しかし西岡くんは馬締くんという存在の登場により自分自身と素直に向き合うようになります。

その中で気付く、様々な思い。

言葉のセンスが良い馬締くんへの嫉妬や劣等感、今まで辞書編集部で自分なりに頑張ってきたのに報われない虚しさ、関係を続ける美人ではない女性への思い、などなど。

「強がっている男性」が自分の弱い部分に目を向け、それを受け止めて「素直に生きる」ようになる、このプロセスもまた女性が弱いところであるように思います…「西岡くんを私が救いたい!」と思ってしまった女性は私だけでないはず。。。多分。

そう思うかどうかは別として、この辞書制作という主題の中でこういった「普通」な人を描ききっているところが「辞書」という存在を身近に感じさせる一因にもなっているのではないかと思います。

「辞書」を作っている人も普通の人間なんだよ、と言われているような言われていないような。

もう一人、「普通の人」として女性誌の編集に携わってきたのにも関わらず急に辞書編集部へ異動となった岸辺さんという女性が登場します。

彼女もごく普通の働く女性として生き生きと描かれている。

様々な人がそれぞれの特性を活かして「ものづくり」に取り組むこの物語は、一部の個性の強い人を取り上げているように見えるようでいて実はあくまで「私たち」の物語となっている。

それが多くの読者を引きつける魅力なのではないかと。

 

 

ノーマルに三点でまとめた上になんだか月並みの感想になってしまいました。精進します。

ちなみに本の装丁が内容とつながっている上に工夫されていてとてもお気に入りです。

大海を知った蛙の行く末

井の中の蛙、大海を知らず

という有名なことわざがあります。

井戸の中の蛙に海の話をしても全く信じない、

という話から視野が狭く広い世界を知らないということを表します。

 

中高時代6年間という多感な時期を中高一貫の女子校で過ごした私は、

まさにその蛙だった

と最近の会話の中で思ったので考えてみました。

 

古風な伝統と校則のある窮屈な学校生活と「女子だけ」という環境の中にいる6年間、考えることはその環境の中のさらに些細なことばかりでした。

校則を破って先生に呼び出されたことをどう親に言い訳するかとか、

仲の良い友達が違う子と仲良くなり始めて不安だなあとか、

もっと漫画について詳しくなってあの子たちの話に入ろうとか、

そんなことばかりを考えながら自転車をこいで下校したものです。

学校生活にもだいぶ慣れてきて、考え方も少し落ち着いた中学3年生のころから私は行事ごとにリーダーを務めたりするようになりました。

勉強もコツコツとやるタイプではありませんでしたが、テスト前に集中すれば良い成績が取れるほどの学力もあり、いわゆる「目立つ」タイプの生徒だという自覚もあった私は将来への可能性を疑わないまま、受験を乗り切って大学に入学しました。

下宿を伴う大学生活は本当に自由で、まさに私が望んだ大学生活が目の前に広がっていました。

だけど「何か違う」のは自分自身の中にあったんです。

 

おしゃれな友達、関西弁、たくさんの同年代の男性、なんとなく「すごい」先輩達、新しいものだらけの中で私は「私らしさ」を失っている自分に気付いたのです。

もっと私らしくいたい!

しかしその「私らしさ」さえもやがかかった曖昧なものでした。

仲の良い友達と通い慣れた学校の教室の中で堂々と振る舞う自分、それが「私らしさ」だと思っていた私。

その環境から一歩出ただけで「私らしい」と信じていた「自分」が一瞬で崩壊したことに気付いてしまったのです。

そして、そんなふうに崩壊した「私らしさ」なんて「私らしさ」と言えるのだろうか。

新しい場所で同じ状況でも「自分らしく」振る舞うことのできる子はたくさんいるように見えました。なのに、私はできない。

言いたいことを言わず、猫をかぶる自分自身にも腹が立つ日々。

さらに後期試験で合格していたからと鷹をくくっていた学業分野においても、国際系の学部であるためか英語を得意とする人が多く、得意科目であった英語が普通レベルであるということを実感。

こうして学業分野においても「自分らしさ」を失います。

悶々。

大学という場に出てきて初めて自分が「狭い環境にいたこと」を思い知らされる日々。

 

まあそうは言いつつも、良い友達や仲間に救われ、約3年経った大学生活は無事に充実した日々となりました。

大学という荒波に揉まれながら「私らしさ」も少しだけ見つけられてきたような気がする。

 

そして最近になって、中高時代に仲の良かった友達と思い出話に耽る機会があり、3年前の私を思い出すことになったのです。

「本当、狭い世界の話ばっかりしてたよね。」

と笑いながら話すその友達も、高校時代とは違った雰囲気がありました。

彼女も彼女なりに色々考えたり苦労したに違いない。

お互い連絡はしない性格だったので大学での日々の相談等はあまりしませんでしたが、同じような悩みを抱えていたということが伝わってきました。

「ね。井の中の蛙って感じ。」

母校のおかしな校則やその他の今となってはくだらない、クラス内のいさかいや対立についてを笑い話にし、会話は自然と将来の話に移っていきました。

就職の話や、今付き合っている彼の話、そして結婚とその後の人生の話。

「こんな話するようになったんだね。」

どこかくすぐったく、でも真剣に話をする私たちは「なんだか年を取った」気がしていました。

就職活動をする中で将来のことを少しずつ具体的に考えるようになった今、将来の話は急にリアリティを持って、高校時代の話が本当にはるか遠い昔のように思えました。

「そういえば、社長になるとか言ってたよね。Marieは本当になるかもしれないとも思ってたけど。あと海外行ってバリバリ働きたいとかも言ってた。」

友達にそう言われて私は急に気恥ずかしくなり「そんな話もあったね。」と笑ってかわしながら、何か心にもやっと残るものを感じました。

 

「どうして社長になるという夢を捨てたんだろう?」

「どうして英語の勉強をやめたんだろう?」

たしかに「社長になりたい」とか「英語を勉強して海外で働きたい」と思っていた当時の私は浅はかで、世間知らずで、情報も持たないただの女子高生でした。

しかしどうして人に言われてからしか思い出せないほど奥の方までこの思いをしまいこんでしまったんだろう?

おそらく、「無理だ」と思ったからでしょう。

そう思ったのは大海を知ったからです。本当に広い広い、私が見たこともないような生物がたくさんいる海を知ったからです。

さらにその海がほんの一部の海でしかないことも分かってしまっているからです。

もちろんその二つの夢が本当に自分がしたいことからズレてきているというのも理由の一つです。

でも、考え方として

大海を知った上で「リアリティのある将来」を考えなければならない

という思いが強くなっている。

まるで大海を知った蛙が井の中に戻っていくみたいだな、と感じてしまうのです。

 

井の中の蛙、大海を知らず」

には続きがあります。

 

「されど、空の深さを知る」

 

これは日本で付け足された一文で、これにより

一つの場所にとどまることで、より深い知識を得ることができる

というポジティブな意味のことわざになっています。

 

確かに井の中の蛙にだって長所はあるはずですよね。

 

あとは、大海を知っても尻込みしない蛙になりたいものだと思うものです。

ブログを始めるにあたって

ブログをいざ始めようと思いアカウントを取得して

「よし順調に始められそうだ!」と思っていた矢先、

そのやる気をへし折るように意気消沈させられるのが

プロフィールの制作。

自分が胸を張って詳しいと言えることなんてないという衝撃の事実が立ちはだかります。

そしてこんな自分が意気揚々と世の中に何かを発信しようとしていることを恥ずかしく思って取得したアカウント共々穴があったら入りたいという心境になり、終了。

 ...という人が私以外にも数人いると信じたい。

というのもこの間までTwitterのプロフィールで

大学名/活動/趣味のキーワード/好きな著者/バンド名/映画監督/俳優/etc.

というように日々の自分を構成する要素を羅列する自己紹介がはやっていましたが

私の周りではこういう書き方をする人が減少しているように思われるからです。

 

Twitterが色々な問題を顕在化させた2013年でしたからみなさん慎重になっているのかもしれません。

しかし最大の暴挙・空白も乱用されているという今の状況はそれだけでは片付けられない事態のように思う訳です。

下の名前のみのアカウント名で「同じ学部で同じ授業を受けてる○○ちゃんだ!」と分かるはずもありません。最悪の場合フォローされても気づきません。

どういう人か、何に興味を持っているのか、そういった「個」の内面的情報が重要視されるネットの世界においてなぜこの空白プロフィールが乱用されるのか。

それは「ネットのみの繋がりは求めていない」「SNSをあくまでプライベートな発信な場として使用している」人が多いからなのではないかと。

私もネット上(オフラインでも同じですが)で自分をアピールするのは得意ではありません。だから空白にしたくなるのも分かる。しかしネット上で発言するためには最低限の内面的情報を晒す必要がある。

プロフィール欄の空白はそういった「公の場であるということに対しての気兼ね」や「公の場であるという意識による危機管理意識」「発信したい欲」「情報収集欲」をぐるぐると混ぜあわせたものなのではないかと思います。

昨年問題として取り上げられたいわゆるバカッター事件によりネットに関しての教育の必要性が議論されるようになりました。

もちろんネット社会を「公に開かれた誰もが閲覧できる場」として認識し、その前提をもとに発言・発信を考えていくのが当然求められること。

 

しかし逆に言えば知識がゼロに近い人でも利用できるものがネットであり、ネットがそういう存在である限り誰が利用しようと非難することはできないし、規制することもできない。

ということはですね。

例え自分が個性薄弱ななんともない個だと気づいて絶望したとしても

このネット上の世界で一文字も発信することができなかったら一生どこでも発信できるような人になることはないということですよ!

と、いうわけでブログの重要要素であるプロフィールさえ納得して埋めることができない女子大生がこうして文章をこしらえることを決意したわけです。

 

まあシンプルに言ってしまうとMacbook Pro を手に入れてどこにでも気軽にパソコンを持ち運びできるようになったというのがブログ開設の主な理由です。。。

このスペックの高いパソコンを気軽に持ち運べるという便利さに感謝し、

就職活動にも精を出したいとぼんやりと思う次第です。

 

こんな感じでゆるゆるっとブログを続けるのが2014年の抱負。

どうぞよろしくお願いします。