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映画:『永遠の0』

最近それなりに色々と考えることがあって文章もうまくまとまらない日々が続きましたので(文豪きどり)、映画を観に行ってきました。

 

話題の「ゼロ・グラビティ」と妻夫木くん目当てで「ジャッジ!」と迷ったのですがなぜか発券したのは「永遠の0」。

原作を読んでからキャスティングを見て、「う~~~ん...」といまいち良いイメージが湧かなかったので視野になかったんですが、やはり気になったので。

 

原作が素晴らしいだけに一定値以下にはならないだろうな~とコカコーラの紙コップからジンジャエールを吸い上げながら思っていましたが、まあその通りですね。

原作の方が良かったと思う点もあれば、映画を見ながら初めて理解したことや見えてきたこともあるので書いておきます。

 

「こんなとこあった??」

原作という存在がある以上もうこんなことは言う必要もないのかもしれませんが、やはり原作にはないシーンがいくつか見受けられました。

一番目についたのは合コンに呼ばれた三浦春馬演じる主人公が大学の友人に「特攻隊はテロリストと同じ」という論を展開されて逆上するシーン。

そのあとヤクザの親分のところへ行って重要な話を聞きに行くというつなぎになる大事なシーンなのですが、ちょっとチャラチャラしてるのに知ったかぶったような大学生にこの論を主張させたのは大きな違和感がありました。。。

おそらく戦争を知らない若者への戒めだとは思うのですが、主人公が怒るのではなく、原作のように記者であるお姉さんが戦争経験者に質問を投げて怒鳴られるというところに意味があったのでは…。

しかし「特攻隊がテロリストだろうがテロリストでなかろうがどっちでもいい」と言い放った大学生の言葉が妙にリアルでした。

おそらく映画では現実の世界との対比に重点が置かれていたのではないかと思います。

 

今回映画でかなり目についたのは特攻が始まってからの宮部のやつれ具合。

原作でも「人が変わっていた」と表現されていたと思いますが、たたみの部屋の隅で一人三角座りをして無精髭を生やし、目を赤く腫らしていた姿はあまりにも変わり果てていて驚きました。

後にヤクザの親分となる景浦を怒鳴りつけ、さらに弱音まで吐く宮部。

こんなんだったかな?と疑問に感じたのですがおそらく特攻を選択した理由に大きく関わるこのシーンをきちんと描きたかったのかな。

 

ラストシーンでは現代の「日常」が流れる中で

岡田准一演じる宮部久蔵の乗る零戦が主人公の目前に幻想として現れます。

伝わってくるんですが、まあここまでしなくても良かったのでは…。

その前にもダイジェストのようにこれまで出てきた戦闘員や宮部と関わった人々が映し出されるのですが、完全に涙が乾いていく時間でした。

 

「筋肉!!!」

最初キャスティングを見たとき、

「岡田くんか~イケメンではあるが宮部さんは背が高くてがっちりした男性の設定だったからな~」

ともやもやしていましたが、これは映画を見て払拭されました。

潔い角刈りはもちろん、かなり体作りもしてありました。

末期がんにかかっていた井崎からの証言で宮部が夜な夜な欠かさず筋トレをしていることが分かるのですが、そのシーンでの岡田くんの筋肉のすばらしさはため息が出るほど。惚れました。

体作りももちろんなんですが、CGが多い中、それを感じさせない演技。前述したやつれた宮部も、家庭にいったん帰る宮部も、特攻にのぞむ宮部も、すべて一転の曇りもなく演じきっていたように思います…もうジャニーズの技量じゃない。俳優さんでした。

 

ぴあのインタビューでも意気込みを語っています。

岡田准一、難役挑み「眠れぬ日々」 零戦パイロット演じた『永遠の0』が完成

http://cinema.pia.co.jp/news/159874/52611/#pagetop

 

 

「“0”の意味」

今回映画を見て改めて題名になっているゼロの意味を考えてみました。

色んな方が議論されてるとは思いますのであくまで私の見解。

零戦

もちろん零戦の0という意味も含まれていると思います。

ただ、なぜ「永遠」なのかは零戦からは分からない。

『生還率0%』

台詞にも出てくるように、特攻というのは九死に一生というものでもない。

成功=死ということで、生き残る可能性はもともと0%。

ということで特攻の生還率0%の、0。

死が永遠であるということや特攻の生還率が0以外にはなり得ないことが「永遠」という言葉にも繋がりそうです。

『国家への影響が0』

これは私が絞り出したもう一つのゼロです。

宮部が死に急ぐ仲間に「お前が死んだら悲しむ人がいるだろう!」と説得します。

国家にとってはただのひとつの「死」だが家族にとっては大きな悲しみと影響を与える悲惨な「死」になる。

つまり家族や恋人にとっては重要な意味を持つ「ひとつの死」が国家全体にとっては何も影響を与えない、小さく些細な「ゼロに近い死」になってしまう。

特攻では敵艦に達する機が少なかったとも言いますから、本当に「ゼロ」だった死も中には存在するのだろうと思います。惨い話ですが。

「特攻なんてやる国はもう終わりだと思った」「宮部、犬死にする気か!」

と親分の景浦が言うように、特攻をして「勝てる」という望みは本当に薄かったのだと思います。

特攻で生まれた死が国家に与える影響は、信じたくありませんが「0」だったのでは。

 

空前のヒットを記録した『永遠の0』。

なんと350万部達成だとか。

私も大々的に話題になる前から本屋さんで見かけ、熱の入ったポップを読みながら気になってはいたのですが、分厚さと得体の知れなさと聞いたことのない作家名からなかなか買えずにいました。

そして気付くと大ヒット。どこの書店でも店頭に置かれている。

なんだなんだ、と手に取ってページをめくると特攻してくる零戦の様子が描かれている。

その勢いと得体の知れなさから気付けばレジに持っていっている。

何かのインタビューで拝見しましたが、やはり百田氏もマーケティングに関してはよくよく考えられていたようで、

「書店に並べられたときの見え方を考えた。目立つためにはどんなタイトルが良いか考えた。」

とおっしゃっていました。

テレビ番組の作家さんの経験を活かした発想力。

確かに「零戦」や「戦争」「特攻」などのキーワードが入っていたら

「ああ、なんだ戦争ものか」

と思われ手にとられなかったかもしれません。

映画では葬式のシーンからはじまりますが、小説は特攻を米国側から捉えた強烈なシーンから始まり、序章を読み終わると続きが気になり、立ち読みで読み終えられる文量でもないので買ってしまう。

読み進めると謎解きのように次々と浮かび上がってくる「宮部久蔵」の姿。

そしてだんだんと姿を現す主題である「愛」の形。

そして読み終わったあとに気付く、この小説が抱える情報量の多さや研究の深さ。

タイトル、構成、情報、主題など隅々まで手が込んでいるこの作品。

もしかしたら百田氏にとっては売れて当然だったのかも…?

しかしヒットの理由を考えるのは簡単ですが、ヒットを生み出すのは難しいこと。

 

多くの人が「永遠に残して行くべき物語だ」と言う理由が、今日映画を見て再確認されました。

小説を読んだのは半年ほど前の話ですが、すでにそのとき読んだあとに抱いた感想や思いは薄れていたのを実感しました。

私たちは「戦争」を知らない。

だから当時の若い立派な人々より命や人生に対しての考えが薄いのかもしれない。

そしてその人たちのように考えながら生きることはできないのかもしれない。

でも、当時の人達から「学ぶ」ことはできる。

そして今の私たちに求められることは、「学ぶ」ことなのだと。

 

そんなことを、思いました。

 

映画館から出ると、同じく映画を見終わった老夫婦が手をつなぎながら寒い冬の夜道を帰っていました。

そのゆっくりとした後ろ姿がとても温かく、愛情に溢れて見えたこの感覚が、明日も消えないでいたらいいなと思うのでありました。まる。

 

まだご覧になっていない方のために。(さんざんネタバレしたあとですが)


映画 『永遠の0』 予告編 90秒 - YouTube